Till Eternity

どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・

Rの時代 Ⅵ

 久しぶりの花園であった。懐かしい場所に訪れるというのは嬉しいものである、がっ、そればかりではない。いろんな思いがこみ上げてくる。この年になればなおさらである。

 今回は寂しい、いや、正直悲しい、そう感じた。日本代表の不甲斐ない戦いがそれを誘ったのは確かである。相も変わらずスクラムは冴えず、ハイボールへの対応も甘い。ランメーターでは大幅にトンガを下回り、ハンドリングエラーも一向に直らない。まったく溜息しか出ないお寒い試合内容であった。

 しかし、私を嘆かせたのはそれだけではない。それ以上にグラウンドの状態、特に芝生、そこにいろんな幾何学的なラインが描かれているのが物悲しかったのだ。

 花園はもうラグビーだけのものではない、そう思い知る刹那が辛かったのである。

 それを言うなら、味スタや横国、エコパ、昭和電工をおまえらは我が物顔で使ったじゃねぇか、そう言われそうである。その通りだ、われわれはサッカーファンに不義理を働いている。そのバチが当たった。

 ラグビーだけで花園を維持するのでは、東大阪市民に迷惑をかけ続けることを意味する。管理指定業者を大阪FCに奪われたのは日本ラグビー協会の失策。すべてはラグビー側に問題があるわけで、つまりはてめぇの責任なのだ。

 しかし、である・・・・。花園はラグビーの聖地であり、そしてかくいう私の思い出の場所でもあるのだ!

 母親の実家がラグビー場の前の交番の迎えの筋にあった。あまり詳しく書くと特定されそうなのでやめるが、花園ラグビー場は文字通り目と鼻の先であった。

 子供の頃、春、夏、冬休みはそれぞれ半分以上、そこで暮らした。少なくともその期間、私にとって花園ラグビー場は生活の一部であったのだ。

 私の家は、犬を五匹も六匹も七匹も八匹も飼うし猫も飼う、そんな家系なので、私は犬や猫とーつの布団で寝て育った。おかげで私の学生服は常に毛だらけであった。よく馬鹿にされたものだ。

 部活で疲れ果て家に帰り、ぼーっとしていると、気が付けば猫が膝の上に乗っていて、犬が横に来て肩を寄せて来る、そんな日常であった。

 母親の実家での祖母との一日は、朝6時頃に起きて、犬を散歩に連れていくところから始まる。まだ小学生の私の両手は二匹の犬に引っ張られ、祖母は三匹の犬に引きずられる様に家を出る。するとベランダや庭に残された犬が、自分の番はまだなのかと容赦なく吠え出す。祖母がその度にシーッと大きな声を出す。朝っぱらから、と周囲の住人の顰蹙の的であったことは間違いない。苦情もよく出ていたようだ。

 実は舞台裏を申し上げるなら、犬を散歩に連れ出す、そこまででも一苦労していた。犬どうしの相性から、一回目に連れて行くのはこの子とこの子じゃないとダメ。そんなルール通りに散歩の準備をするだけでもかなり骨を折った。

 私の家もたくさん犬を飼っていたが、阪神間奥座敷、つまり田舎なので、それこそ行ってこいって感じで放し飼いをしても、まったく問題にもならなかった。今思うに大らかな時代だったなぁ・・・・。なのでむしろ悪戯をしたりすると、出ていけー、っと門から蹴とばして外に出す、すると捨てられまいと犬が申し訳なさそうに家の周囲をクンクン鼻を鳴らしながら歩いて回り、外からこちらの出方を伺ったり、玄関で伏し目がちに入れてくれるまで動こうとしない、そんな感じであった。

 だが、都会とは言えないまでも東大阪ではさすがにそういうわけにはいかず、何匹も犬を飼ってしまうと、逆に家から散歩に出たがる犬を抑えながら、外に連れ出すだけでも一苦労。一度に犬を都合五匹、二人して連れていく先、それは言うまでもなく目と鼻の先にあるその花園ラグビー場であった。

 ラグビー場を縁取る小さな径、足元を遮る伸び放題の雑草を犬たちはものともせず掻き分け、時計とは逆回りに半周ぐらい歩く。と、祖母がここから入れる、そう手招き、その元へ駆け寄る。

 金網に下の方に穴が開ているのだ。祖母、三匹の犬、そしてニ匹の犬、私の順でしゃがんで金網をくぐる。すると、手入れはそれほど行き届いてはないがー面の芝生が広がっている。喜々として飛び跳ねる犬を放してやる。今でいうところの第三グラウンドか。

 近鉄が一番早くに市に手放した陸上競技場と花園中央公園のあたりは、当時はミニゴルフ場で、祖母と私は大胆にもそこへ犬を連れて毎朝散歩に来ていたのだ・・・・。

 「おかぁーちゃまぁ(祖母の愛称)、ここ、犬とか連れてきて大丈夫なん?」← っていうか、おまえとババァだって駄目なんだよ、普通はな!

 「うん、まだ係の人みんな寝てる、大丈夫、あんたは心配せんでもいい!」

 考えてみると、近鉄ラグビー部の社員寮はラグビー場本体にあった。あの谷口もそこで暮らしていたことになる・・・・、そう思うと複雑である。

 すると祖母はやおら肩にかけたバックからアイアンを持ち出し素振りを繰り返し、あろうことかゴルフボールを打ち出すのであった。

 そう長くはないフェアーウェーを転々とするボール。それを我先にと追いかけ、そしてそれを咥え祖母目掛けて戻ってくる犬どもの誇らしげな表情や、そのたびに大袈裟に誉め、両頬を撫でまわしてやる祖母の幸せそうな姿が忘れられない。

その景色は私の幼いころ、昭和五十年代前半の原風景のーつなのだ。

 まぁそう思い返すと、当時、第二、第三グラウンドはミニゴルフ場で、花園ラグビー場は打ちっぱなしでもあった。だったらサッ力一と共用でも問題ないやろ、そう言われると返す言葉はない。ないのであるが、あの線だらけで、短く刈り上げられた芝生を見るのはさすがに忍びなかったのだ。

 

 明日のフィジー戦、忖度や先方に疲れがなければ間違いなくボコられます。そして日本はランキングを落とし続けるのでしょう。坂道を転がるように元の日本代表へと戻っていく。魔法はとけた。なにもかもがもう遅く、われわれはなにもかもをなくす、それを受け入れる準備にとりかかる必要があるのかもしれませんね。

 でも日本ラグビー協会や、関西ラグビー協会、そして大学ラグビーファンのみなさんは、きっとそれで満足なのでしょう。

 合掌