Till Eternity

どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・

阪神 優勝へのカウントダウン Ⅱ

 阪神、大竹の好投で何とか踏ん張りました。自身の球宴初出場を初の完封で祝った格好。初物尽くしということで、今朝の大阪のスポーツ新聞の見出しの見当がついた、というと言い過ぎか。

 正直、大竹がここまでやるとは開幕前には思いもしなかった。それだけに今月以降も好調を維持できるのか、正直微妙と見ている。大竹の調子が落ちた時、どんでんが西や才木にそうであったようにシビアな対応が取れるのか、後半戦の注目ポイントの一つに挙げたいと思う。

    

 これで交流戦明け4勝6敗1分け。借金は2。今日は村上 VS 野村のマッチアップだけに連勝と行きたいところ。しかし村上に開幕直後のキレはない。恐らくカープは左打者をこれでもかと並べてくる。打撃戦の予感。となると分が悪い。できれば桐敷あたりで奇襲に出るのも有りだと思っていたが・・・・。

 まぁ苦戦は覚悟の上。個人的には絶好調の広島にズムスタで1勝2敗なら御の字である。欲張らずに、今は勝負どころの秋に向けて力を試し温存する時期ではないか。

 昨日書いたファンの選手への目線についてもう少し掘り下げたい。阪神が優勝から遠ざかる理由や、逆に優勝するためのヒントが潜んでいるように思うのだ。

 まず当たり前の話であるが、ファンが選手を見下ろす、というのは望ましくはない。例えば最近のこんなケース、

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 ライオンズのファンのその気持ち、判らんでもない。一方で西武の選手たちのモチベーションが心配にもなる。しかし、逆の見方もある。言われているうちが花だぞ、ってこと。つまりファンが熱心に応援するからこそであり、「働け!」コールとはその裏返しなのだと。

 西武は確か去年までの二十年以上、Bクラスに落ちたことがなかった。ゆえにファンの低迷に対する耐性は弱い。目線の観点でいうなら、長きに渡り上目遣いで選手たちを眺めてきたのであろう。それが今回仇となって爆発した形か。ファンの目線とは実に複雑である。

 セリーグにも開幕からここまでファンの期待を大きく裏切ったチームがある。ヤクルトである。優勝候補本命が一気に最下を争うまで堕ちた。村上、山田、中村など選手は揃っているのにと、ファンはさぞかしご立腹かと思いきや、さにあらず。ライトスタンドは至って普通だ。大型連敗もあったというのに、むしろ神宮は賑わっている。

 観客動員は平均五千人増で、伸び率で言えばセリーグトップ。これこそが連覇効果であり、去年一昨年で築き上げたファンとの信頼の証なのか? 答えはNO。注意深くスタンドを眺めてみれば、その真相を見極められる。レフトや三塁側はビジターのユニフォームで花盛り。それは一塁側にまで回り込む始末。どうやら相も変わらず他人の褌で商売しているようだ。

 私に言わせると、ヤクルトは最も経営努力とは縁遠いスポーツ興行主である。神宮は立地が良いし、弱いほうがビジターチームのファンは通いやすい。因みに東京のトラキチどもは、神宮のことを第二甲子園と呼んでいる。

 仮に今シーズン、結果として中日とのマッチレースに敗れ最下位となっても、ライトスタンドから「働け!」コールが起こることはないだろう。球団が熱心なファンを作ろうとしない以上、それは起こりえないのだ。つまり皮肉にも、選手を見下ろすような厄介なファンも存在しない。それゆえ選手はほぼノープレッシャー。若手が伸び伸びプレーできる環境とはこのことかもしれない。実際生きの良い野手がどんどん育ってきている。あの劣悪なファームの環境でよくぞとも思う。ヤクルトが何だかんだ言いながらも、定期的に強くなる背景は案外というか、ここにあるのではと睨んでいる。

 ここまで書いてきて、私の頭の中の混乱はピークに達したようだ。何故ならプロスポーツとは熱心なファンに支えられている。それこそが球団経営の骨幹である。そこに間違いはない。だが、チームをファンが力の限り応援する、それによって生じる自負が選手を見下ろす目線をも生むというジレンマ 。

 ファンが熱を入れて応援すればするほど、実は多くの選手が萎縮してもいる。特に打者はその傾向が強いように思う。ナイーブで繊細な投手などにも当てはまるのであろうが、コンマ数秒の遅れやミリ単位のズレで、結果が大きく変わるのは恐らく打者であろう。打ちたいという焦りを、スタンドからの応援が容赦なく煽る。そのボルテージが上がれば上がるほど、打席に立つ選手の内面の乱れは大きくなっていく。力みあがった打者が、甘い失投をフルスイング、高々とポップフライを打ち上げる、そんなシーンが頭を過る。

 甲子園の比類なき大声援を、何故わが阪神は追い風にできないのか? 幼いころから抱え続ける矛盾である・・・・。

 鳴尾浜にまで足繁く通い、期待の若手を定点チェックし声を掛ける、そんな熱心なファンの願いとは裏腹に、粗末な環境ではあるがプレッシャーとは皆無な戸田でスクスクと育つヤクルトの野手。この矛盾に向き合うとき、黒板にチョークで書かれた難解な数式を前に出て解けと迫られたかのように、私の思考はフリーズする。

 

 ここから極論であり妄想めいた仮説をーつ紹介したい。

 三冠王に三度輝いた落合博光であるが、あれほどまでに打撃を極めることができたのは、あのスカス力の川崎球場が本拠地であったからではないか? 落合のマイペースな性格やプロに至るまでの異色の球歴を眺めるにつけ、そのように思えてならない。

 清原がFAで巨人に移籍後さっぱりだったのはどうだろう。見かけによらず神経質だと聞く。これまでわれわれは、巨人や阪神に合わなかった打者を何人も見てきた。あれは何だったのか?  盛りを過ぎたロートルだったと決めつけてきたが果たして本当にそれだけであったか・・・・。

 投手ながら藤浪もその一人だろう。あの口を尖らせる癖、間違いなく波打つ内面の発露とみた。岩崎あたりがマウンドで絶対に表情を変えないのは、藤浪を反面教師にしているのではないか。今となっては少し懐かしい気もするが、拝みたければカリフォルニアに行けばいい。オークランドのマウンドでいつも彼はそれをしている。恐らく野球を続ける限り治ることはないだろう。

 いつだったか、ルーキー時代や夏の甲子園での藤浪の投球を見直したことがあった。口を尖らせるような仕草はほぼなかった。不満と謙虚さ、もしくは不満と余裕はシーソーの関係だそうだ。プロ入り後、彼はどこかで謙虚さと余裕を失ったのかもしれない・・・・。

 藤浪をしっかりと教育できなかったのは間違いなく阪神の責任だ。球団の不始末はわれわれのものでもある。ファンにもその一端はあるということになるのだろう。

 以上、仮説はここまで

 結論として申し上げるならば、人気チームであればあるほど、メンタルトレーニングやサポートなりケアなりが重要になる、ということ。なにせチームには十代後半や二十代前半の子がゴロゴロいる。肉体だけではなく精神面での育成にも、もっと力を入れるべきだろう。

 阪神が今年、九回二死ツーストライクから勝利を逃す、そんなシーンを何度か見た。後一人、後一球コールを見直すべきでは、という記事もある。

www.sponichi.co.jp

 応援をもっとシンプルにすべきという声も耳にする。もう鳴り物はやめにして、太鼓と声を張り上げるだけの応援に戻ってもいいのかもしれない。

 あれはトランペット導入直前、昭和でいえば53、 4年あたり。掛布コールで覆われた甲子園の迫力にファンながら圧倒されたことがあった。決してーつにはならなかったが、四方八方から地鳴りのような掛布コールが次々に沸き起こり、やがて何も聴こえなくなる。こんな経験は後にも先にもあれだけだ。マンモス甲子園の凄みに鳥肌が立ったものだ。

 チームの私設応援団がトランペットを最初に導入したのはカープだと記憶している。昨日は茶化して書いたが、カープファンの熱心さには、プロの阪神ファンといえども素直に頭の下がる思いである。阪神よりも長かったとされる暗黒期、カープを応援するファン以上の熱量で練習に取り組んだ若手がいたであろうか? その長い年月が、ファンの目線を変質させ、選手を見下ろす風潮を定着させた。四半世紀優勝から遠ざかったのも肯ける話である。

 もし今年も阪神が優勝を逃したら、さすがにまずいと思っている。なんとか選手に、そしてなんとしてもファンに、優勝を経験してもらいたい、そう願う。わが阪神タイガースファンの応援は間違いなく世界一なのだから。まずはチームを日本一にするために、その応援の在り方について考える必要があるのかもしれない。

 甲子園のファンの声援が、選手の躍動と表裏一体、寸分の狂いもなく重なる、そんな瞬間で優勝を迎えたいものだ。もしそんな瞬間がやって来たなら、その時こそファンの選手に対する目線はリセットされるであろう。