Till Eternity

どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・

開設にあたって

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H. F.

  どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・
 ブログ開設にあたっての一種の予防線であると同時に、それは偽らざる本音でもある。
 今、世の中で最も価値のあるものはと問われれば、それは”スピード”ではないだろうか。安っぽい言い方をするなら、スピードは”Priceless”であり、誰もがそれを求めている。つまるところ人は今、なるべく”OnLine”でいたい、そう願っているようにすら感じる。
 「時代に取り残されたくない」とか、「時代遅れになりたくない」とか、その手の旧い悩みは平成の世の中にも溢れてはいたが、そういうのではなく、今何が起こっているかを純粋に知っておきたい、それも自然のうちに、といったもののようだ。そう、株価と問われれば、普通にリアルタイムのものを指すように。
 だから人はニュースについても鮮度を必要としている。ニュースソースの配信時間やニュースサイトの更新時刻が、まるでコンビニのサンドイッチの製造日付のように気になった経験は誰にでもあるだろう。
 でもそれは決して新しさを競っているのではなくて、繰り返すようだが、”この瞬間”に起こっていることを知っておきたいだけなのだ。それが嗜みの一つでもあるかのように。
 一方正しさはどうだろう?
 厳密にいえば、そこにそれほどの正しさは求められていないかもしれない。たとえば新型コロナウイルスの全世界における感染者の数を、今この時間の正確な数字で知ったところで、15分後には確実に積み上がっているだろうから、それは間違っていないが決して正しくはない。じゃあ最終的な数字が集計されるまで寝ずに待つのかと問われれば、そこまではとても付き合いきれない。世間でいうところの5Gの謳い文句である「高速大容量」だって、その言葉を分解して競わせたなら、「高速」が「大容量」に勝るだろう。
 正しさを支えるためにはデータが必要だ。それが多ければ多いほど、正しさは真理に近づくかもしれない。試しに目の前の端末に、興味がある事象に関するそこそこの量のデータをダウンロードしてみてはいかがか?今のあなたの環境でも時間がかかっても構わないのなら、それは忘れたころに正しく終わってはいるだろう。だけど・・・・、そこまでは待てない。求めているのはあくまでも”スピード”。正しささえ、あたかもそこに内包されているかのように。
 春宵一刻値千金。
 ”値千金”を”Priceless”の同義語と解釈するなら、もう千年以上前から、人は”この瞬間”の価値を十分に知っていたことになる。
 ”この瞬間”を美しいと感じ、その景色を一瞬でも長く眺めていたいという思いは、それが不可能である限りどこまでも美しく昇華する。我々はどんなに頑張ったところで、時間を止めることはもちろん、その流れを緩めることすらできはしない。だから”この瞬間”への思いも、切ないまでに研ぎ澄まされていく。
 我々にできることがあるとすれば、それは”この瞬間”の領域を、せめて横に向かって広げていくことだけなのかもしれない。だから一人でも多くの人と”この瞬間”を共有できたらと願うのだ。そしてそのためにはスピードが、限りなく”OnLine”になるまで必要なのだろう。
 一端の思春期を経験したことがある人ならば誰もが、恋する人に対して、自らの内から今にも噴き出すような熱い想いのすべてを、余すところなくこの瞬間に伝えることができたら、そう思ったことがあるのではないか。まさにそれは一種の”OnLine”であり、求めるスピードの行きつく先と言えるだろう。

 思春期を三度重ねられるほどの年齢に達し、人生の半分を超えたといえる私にとって、スピードとは堆積しなお加速し続ける月日の流れであり、それは常に”速さ”ではなく”短さ”を示す意識の単位でもある。「もう一月が終わった」、「もう春だ」、「あっという間に半年過ぎた」、「今年も気が付いたら残り一月を切った」、と年を重ねるにつれ意識する時間の感覚は短くなっていく。
 時間の”速さ”と”短さ”が等しく同じものなのかはわからないが、正直スピードに対して”怖さ”を感じることもあるほどだ。
 そんな私ではあるが、人々がスピードを求めることには大いに与するつもりである。
 私はどんなに老いぼれようとも、決してスローライフを提唱するようなぬるま湯に浸かりたくはないし、どんな田舎の片隅に追いやられようとも効率を旨にしたいし、人としてのレスポンシビリティについてはスピードが伴うものだと思っていたい。そう、残された時間が少ないほど、スピードが必要なのだ。

しかし、スピードが”絶対”ではない、とも思う。

 たとえば親として、我が子に、自分についてどのように伝えるべきか、を考えないことはない。たまに真剣に考えすぎて、まるで自らの罪を神父に告げる敬虔なカトリック信者のように思い悩むことさえある。
 果たしてどのように伝えよう、自分というものを、自らの志を、言葉を、思想を、来し方を、託したい夢を、そしてこの愛を・・・・、
 もちろん何もかもを一度に伝えたいというのではない。今伝えておくべきことを、状況に応じて伝えることができたらと思う。
 しかしそれがどこまでなのかも、いつなのかも判然とはしない。こんな当たり前のこともできないのかと、もう何も考えずに一方的に以心伝心(OnLine)にすがりたくなることもある。親子なんだし、わからないことも含めてわかるよな、と。

 一瞬そう願い・・・・、次の瞬間我に返る。

 我が子が、仮にそのすべてを受けとめたところで、いったいどうなるというのか。
 きっと子供にすれば、間違いなくそれらは押しつけがましく大きなお世話で、乱暴で大げさで難解で言い訳だけは妙に細かく、その割にぼんやりとしたものに違いないからだ。そりゃそうだ、こっちだってようやく薄っすらとわかり始めたものまであるのだから。そもそもいつわかるかもわからないそれらに、正しい伝え方などというものがあるのだろうか・・・・?
 それでも伝えたい。
 いつかわかる日が来ると信じて。
 たとえ時間がかかっても。
 身勝手に託されたそれら曖昧な塊も、やがては固い結び目が緩みほどけ、一つ一つが繋がり始め、収集されていき、少し違った形になるにしても再構成されて、それで少しわかったような気になれば・・・・。
 そんな日がくればいい。
 そしてそんな風に、ここで語っていきたいのです。