アウトコース低めギリギリのボール、どちらにも取れたが球審のコールはストライクであった。野村はその瞬間、 ” ヨッシャーッ! ” と叫んでミットを突き上げた。バースはバットを放り投げて怒りを露わにした。一つ前の打席でも田淵が同じような外の低めをストライクと言われ、スタンカから見逃し三振を喫していた。バースが詰め寄るも球審は相手にしなかった。
野村は最後の関門を脱したと思った。残りは四人。そのうち二人は景浦と藤村。日本プロ野球誕生から在籍する最古参のスター選手である。当時の野球と今の野球では打者のポイントが違う。時代とともに野球は進化し、それに合わせボールとバットの接点は年々少しづつ、捕手側へと寄って行った。その果てに今の野球がある。野村にはこの二人が和田、杉内を打てるとは思えなかった。つまりは安牌、となれば九回一死までは計算できる。
杉内で三点のアドバンテージがあって、試合終了まで必要なアウトは実質二つ。野村は逸る気持ちを抑えると、ボールを両手でしごきながらマウンドに少し歩み寄り、ツーアウトと二本の指を高く立てて現状を確認させ、ボールを柔らかく和田に投げ返した。
野村の気持ちは和田にも乗り移っていた。この回を投げ切れば、もうーつアウトを取ることができたならホークス勝利にほぼ当確が灯る。慎重に行けば必ず景浦は打ち取れる。和田は何度も慎重にと自分に言い聞かせた。
野村はもう一度ホームの前で振り返ると、野手に向かって丁寧にとゼスチャーで示し、一塁ベンチの藤本と、そしてサードコーチャーの岡田を見た。そして代打はないなと確信し、ホームの後ろに回って胸を撫で下ろし、ついでとばかりに腰も下ろした。

神妙な面持ちの景浦が打席に入る。ここまでの三打席、控えめに言っても打てそうな気配はない。その男が土壇場ではたしてどうするのか、ファンならずとも注目が集まるところであった。そしてその答えは出た。誰の目にも見える形で。
1キロ、270匁のバットを軽々と振り回す男が、背中を曲げ、バットを寝かせグリップを二握り余せ打席に立っていた。八回裏二死ランナーなし、三点差のビハインド、その逆境の中、伝説の男はプライドを捨て現代野球に立ち向かう。はたしてその姿は、甲子園に詰め掛けた野球ファンにどのように映ったのであろうか。
野村は逆に安心していた。ここに来て自分のバッティングを捨てたところでと。当り前の話である。和田にとって景浦とは初対決であり、その限りにおいてどんな打撃フォームで向かってこようとも、そこに大した意味はない。
すでに肩も出来上がり、ブルペンで九回表の登板を待つだけとなった村山は、モニターに映る景浦の姿を見て祈らずにはおれなかった。どうか勝負の女神がいるのなら、少しで良い、力を貸して欲しいと。
初球の縦のスライダーに、短く持った景浦のバットはあえなく空を切った。その様を間近にしたネクストに立つ藤村は、少しでも和田を正面で見据えようと、自分の居場所を示す白線をスパイクで掻き消しジリジリとホームに寄って行った。そして一時、二時、十二時、そこから二時と呟いた。同じように打席の景浦も、映像で和田の投球フォームを眺めながら掛布に言われたことを思い返し、頭の中で整理する。
右肩を閉じ背番号を見せたまま和田の身体は、ー塁側に傾いて踏み込んでくる。そしてグラブを持った右腕を上げて抱える。そこから一転、真上から投げ下ろすオーバースローのように身体を真っ直ぐに立て直す。するとようやく右肩が開き、その奥から左腕が出てくる。しかしリリースはスリークォーターで、こちらが勝手に頭の中で描いた位置よりも低い。この錯覚に惑わされているうちにボールが手元まで来ている。
つまり最初は身体の軸をサイドスローのように傾けているのに、腕を振る直前にはまるで真上から投げ下ろす本格派のように背筋を伸ばす。ならば上から来るのかと身構えると、左腕はスリークォーターの位置から現れのである。結果として、打者の眼には和田の腕の位置やリリースポイントが低く映る。対戦相手の思い込みを最大限利用したフォームと言えないか。
掛布が繰り返した時計盤と針に基づいておさらいするなら、和田の身体の軸がー時の向きに傾いて打者に向かってくる。そこにグラブを持った右腕が二時を指して伸びる。すると和田は身体の軸を十二時に立て直す、にもかかわらず左腕は一時ではなく二時を指して出てきてボールをリリースする。
” 一時、二時、十二時、そこから二時 ”
和田の一連のフォームに惑わされないためには、シンプルにグラブを持つ右腕を上げる位置と同じところからボールは来るのだと待つべきかもしれない。なかなか開いてくれない右肩は意識せず、あくまでボールの出どころ、その位置と角度だけを見据えるために。
景浦は何度でも呟く。
” 一時、二時、十二時、そこから二時 ”
和田の二球目はフォーク。掛布の言うように二時から腕が出てくることを景浦は確認してバットを振った。捉えたと思ったが、バットの下っ面でこすって、ボールはバックネットに転がった。
フォームに惑わされることはないと思った。ならば必要なものは何か? 景浦は思い切ってバッターボックスの真ん中に立った。これなら落ちっ端や曲がりっ端を叩けるかもしれないと。
野村はそれに目を止めると、和田にいったんプレートを外させた。
” 追い込まれての変化球待ちかいな・・・・。ならばストレートで胸元を攻めたくなるが、それを誘っているようにでもある” 。
迷った野村はー球外に直球を投げさせ様子を見た。景浦はボールの出所だけを確認すると、明らかな外の球にピクリともしなかった。
” やはり変化球待ち、となると攻めるべくは胸元インコースや ” 。
和田は肯き、ためらうことなくインハイを狙った。
景浦は来たと思って振り始めた。インコース苦しいところであったが、短く持ったグリップは思いのほかスムーズに最短距離でボールを迎えに行く。それでも打席の位置を前に移した分喰い込まれた。1キロを超える重いバットの根元がボールを押し返す。ボールがめり込むような嫌な音を立て、同時にバットの破片がわずかに舞った。
和田は折ったと思ったが、打球は綺麗にセンター前へと運ばれていく。そして新井の前に落ちた。クリーンヒットであった。
「おっしゃーっ!」
景浦の野太い声がスタンドからもはっきり聞こえた。一塁ベンチの全員が立ち上がり拳を突き上げた。
お荷物にも思えた景浦が打ったことで、スタンドはこれまでと違う盛り上がりを示しはじめた。勝負を度外視するものがそこにあったのかもしれない。ブルペンの村山も自然と手を打っていることに後から気付いた。

藤村が ” 失礼するで ” と打席に入ると、先輩の景浦を真似て打席の中央に軸足を据えた。そして物干しざおを、これまた景浦がそうしたように二握り余し右肩に据え、若干背中を曲げて構えた。しかしアゴは出たままだった。
野村は再び変化球待ちなのか、それともストレートを誘っているのか思いあぐねていた。初球から振ってくる、そこは間違いない。ならばとウイニングショットでもあるフォークをボールが無難。外角低目にとサインを出す。和田は落ち着いてグラブと左手を胸の前で重ね、一塁の景浦を目で牽制した。
” 一時、二時、十二時、そこから二時 ”
藤村も呪文のように何度も繰り返していた。
和田がセットから右脚を上げる。藤村は目の前を時計盤と針だけにして、ボールの出所その一点に絞る。

リリースポイントは二時、その通りの位置から白球は来た。
初球を見送られた場合、結果ボールで入ることになるのを嫌う投手独自の微妙な心理が、和田の手元をわずかだが狂わせた。フォークボールがやや甘めにアウトコースに入ってくる。
藤村はフォークの落ちっ端めがけてバットを振った。ストレート軌道で来たボールが、失速気味に落ちていく。思ったよりも来なかったが、軸脚を前に移した分37インチのその先がなんとかボールを捉えた。次の瞬間、物干しざおが根元からやや斜めに真っ二つに裂け折れ、そして破片が四方八方に飛び散った。
折れたヘッドが、まるで痛烈なセカンドゴロのように回転しながら蔭山の前に転がっていく。ボールは・・・・と、一瞬誰もが見失う。どうやら少し遅れてフラフラとライトの前へ飛んでいた。蔭山はバットを避けながら振り返りライトを指差した。そこには前進を繰り返す門田の姿があった。捕れると思ったボールを浜風が押し戻す。迂闊だったと蔭山もそこから全力でボールを追った。一瞬、その蔭山の姿が目に入りブレーキを掛けた門田の足下に、ボールはポトリと落ちた。二死だけに景浦は当然のように三塁を落し入れていた。

再びスタンドが湧いた。これまでまったく機能しなかったタイガース草創期の主砲コンビのシブい連打に、内容なんかどうでもええ、盛り上がれればそれで上等なんやと客席は揺れる。
和田は掛布、バースを手玉に取り、さらに270匁と37インチという二本の伝説のバットをへし折ったが、結果としてピンチを招くこととなった。
すかさず野村がマウンドに上がる。心配顔の蔭山や広瀬もやってくる。野村はミットで顔を覆うと、目だけをギョロつかせバックスクリーンを見ながら蔭山に話しかけた。
和田は決して今岡との相性は悪くはない。しかし自分が解説を担当した03年のホークスと阪神の日本シリーズの初戦の初回、先頭の今岡は和田から苦もなく完壁なヒットを打って見せたことがあった。おそらくあちらも苦手意識はない。ここは佐藤道に変えるのが得策である。
なにより自分は二人とも監督として直に見ている。二人の実力を知り尽くし、力関係も判る。佐藤道がリード通り投げれば、今岡に打たれることはない。絶対に抑えて見せる。佐藤道へのスイッチを鶴岡さんにお願いできないか。野村はミット越しにブツブツといつもの調子で呟く。一通り耳を傾け肯きながら、蔭山はどう鶴岡さんに伝えようかと考え始めた。
野村と蔭山がマウンド上で何を話しているかなど、鶴岡はお見通しである。それでも動こうとしないのは、あくまで和田続投を示唆しているからなのか、それとも二人の動きを見極めようというのか。少なくとも野村にも蔭山にも、鶴岡の頭の中はまったく判らなかった。
マウンドの輪の中に主審も加わり、プレーを促すと踵を返す。意を決した蔭山が振り返りマウンドを二、三歩降り鶴岡を伺う。鶴岡は立ち上がると首をゆっくり動かし、眼で主審を追えと合図を送った。蔭山は頭を下げるとホームへ向かう主審の背中に投手交代を告げた。そして足早にマウンドへ戻ると、律儀にも後輩でもある和田に労いの言葉を掛けるのであった。

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