「行けるで!」
藤本はマウンド上のホークスの光景をつぶさに見てそう独り言をいうと、腕を組んだまま立ち上がった。岡田は先ほどからさかんにベンチを見ている。藤本はそれに気づきながらもあえて目を閉じた。
村山は喰い入るようにモニターを眺め、試合直前に言った藤本の言葉を思い起こし、そしてついに古狸の通りの試合展開になった、流石やないかとボールを足下に叩きつけた。

マウンドに佐藤道が上がる。佐藤道は野村にとって子飼い中の子飼いであった。野村だけでなく沙知代にもいたく可愛がられ、二人の教えを忠実に体現しながらも、不思議と周りから浮くことはなかった。裏表のない佐藤道なら敵の多い野村と周りを結び付けえる、打って付けの存在であることを鶴岡が見越したうえでの人選であった。
勝負を左右する大きな場面での登板に、強心臓で鳴らすさしもの佐藤道も緊張した面持ちでマウンドに登ってくる。野村はなんとか笑顔を繕って迎えた。
” おまえでも緊張するんやな ”、野村はまず冗談まじりに言う。そしてすかさず安心させる材料を与える。ワシは今岡のことはすべて判っていると、自分のリード通り投げろと。続けて阪神の監督時代を通じて、知っている限りの今岡についての情報を早口で伝えた。
まず今岡は追い込まれるまで低めは打たない。だからカウント負けはしない。全球アウトコース低め、釣り球はいらないうえに、胸元を攻めて起こすなど論外。顔に来たボールをスタンドに放り込んだこともあるのだと強調した。
つまりは近めの高めは禁物なんやと念を押し、さらに膝元をえぐる必要もない、自打球が当たると逆に厄介なことになると付け加えた。佐藤道はさすがに自打球がなぜ厄介になるのか、理解ができず野村を見返した。すると野村はー瞬答えに窮し、そして上手く言えないがと断ったうえでスイッチが入るのだと言った。それでも少し首を捻る佐藤道に、
” ・・・・集中力が高まるんやろな。とにかく今岡というのは変な奴なんや。しかしワシはあいつのすべてを知ってる。何も考えるな、ワシにまかせろ” 。
そう繰り返して納得させようとする。
” いずれにしてもリード通り投げれば打たれても、長打を喰うことはない。一塁の藤村が帰ることもない。絶対にパスボールはせん。安心して低めを投げろ。クイックも気にするな、おまえのグラブの動きもそのままで構わへん” 。
そう一気にまくし立てた。
佐藤道はセットでもグラブを持つ左手を高く上げる、いわゆる威嚇型の投球フォームで、ゆえに盗塁を許すことが多かった。しかしそれも気にしなくて良いと野村は言う。
” もし脚を使ってきても、二塁で絶対に刺してやる。三塁は景浦や、重盗もない。ここを抑えたら勝てるで ”。
野村は最後までー方的にしゃべり続けたが、笑顔を添えるのも忘れなかった。その姿を間近にしながら、昔と変わらないなと佐藤道は思った。
帰り際もう一度振り返り、おまえのスライダーは打てない、低めの重要性をおまえなら判ってるはずや、そう釘を刺しようやく背番号19は持ち場へ戻っていくのであった。

佐藤道は用心深い野村が特に口元を隠さず言うからには、 絶対に自信があるのだろう。サイン通りに何も考えなくて良いのなら、逆に楽なもんじゃないかと自分に言い聞かせた。
気難しい野村であったが、佐藤道は新人の頃から不思議とウマが合った。沙知代も含めて、家族ぐるみの付き合いができたのはおそらく自分だけであろう。野村の話には笑って肯けば良いだけ、それを他の投手たちはなぜできないのか、むしろ不思議でならなかった。

初球、アウトコース低めのスライダー、今岡は興味もなく見逃した。今岡はここまでセカンドゴロ、ファーストファールフライにショートゴロ。斉藤のストレートに珍しく刺され、杉浦、皆川のカーブにはまったくタイミングが合わなかった。
野村が後ろからボソボソ話しかけてくる。今岡は何も考えないことにしていた。野村政権下三年間の屈辱を思い出せばいい、それをやり返すチャンスが来たのだと身体の内から、不思議なほどに自然と闘志が湧いてくるのを感じていた。
ツーストライクワンボールからの四球目。アウトコース低めのストレートを打った打球はー塁側スタンドへライナーになって消えた。今岡は佐藤道のストレートなら反応で打てると思った。後はスライダーの見極めだけだ、上手く芯に当てられればライト戦を破れるはず。今岡はとにかく反応だと自分に言い聞かせた。
五球目のスライダー、今岡は再び一塁側へファールを打ち上げた。また浜風で戻って来るかと最後まで松中は追ったが、フェンスの向こうに打球は落ちた。やれやれと一呼吸入れるところだというのに、なぜか一塁走者の藤村が二塁上で悔しがっている。二死だから自動的にエンドランになるのは理解できたが、悔しがる理由は謎であった。まさか単独でディレードスチールを画策していたのか・・・・。
藤村は佐藤道が投球すると同時にユルユルと走りはじめ、そしてバットがボールに当たる直前あたりで猛然とアゴを出し両手両足をバタつかせ二塁へと向かったのだ。
それにしては藤村のリードは短く、そしてその後の動作も緩慢であった。ただ大袈裟な仕草で必死に走っていることは観客に確実に伝わった。どうやらヒットを打ち出塁したことで、気合が漲りはじめたのかもしれない。
六球目のスライダーも今岡はファールで粘る。藤村も先ほどと同様にスタートを切っていた。しかも二塁を大きく回ったところで、ファールかよとこれまた大袈裟に悔しがって見せるのであった。おいおいどうやら猛虎のなかの猛虎が、本気で二塁を狙ってるようやで、ファンはやんやの喝さいを送り出した。
マスクを被る野村はそれを冷淡に流した。
” なにをやっとるんや、ここはランナーを貯める場面やろ。二塁になんて価値などないわい。景浦に連動する素振りもない。そもそも一二塁間が空いとる方が、今岡にはナンボも美味しいのは判っとるやろうに・・ ・・”
七球目もまったく同じシーンが繰り返された。今岡はホークスバッテリーが執拗に繰り返す外スラを、なんとか一塁ヘファールする。すると藤村は、今度はどう見てもファールになるのが判ってから全力で走り出したクセに、こともあろうか二塁に頭から突っ込んで見せた。そして土と砂で真っ黒になった胸を、大きな仕草で荒々しくはたくと、仕上げとばかりにゲホゲホと咳払いまでしてみせた。
これには甲子園もどっと沸いた。藤村はあくまで照れながらも、手を挙げそれに応えてからゆっくりと帰塁しようとする。しかもスコアボードのビジョンに自分の姿が大映しになると、 ” よせやっ ” 、と寄ってきたカメラを手で遮る。またそれで観客が沸き返る。藤村は満面の笑みを湛えて一塁に辿り着いた。

藤村の一挙手一投足に沸き立つ甲子園をよそに、打席の今岡は頭を抱えていた。藤村の動きで気が散り集中できない、というのもあるが、それ以上に藤村の走塁自体が危なっかしくて、少々ボールでも手を出さない訳にはいかない。二塁で憤死されたら一巻の終わりである。これではとてもカウントを整えられないと、思わず打席を外した。
それを横目に野村は、
” 今岡め、柄にもなく困っとる。しめしめやで。
しかしあのおっさん、このまま勘違いしてほんまに走ってくるんと違うか? スタンドが盛り上がるのを真に受けて、俺様が走るのを持っているなどと勝手に誤解して・・・・。
いずれにしても今岡が迷ってるここが勝負や ” 。
そう冷静に状況をスタンドの歓声から切り取ると、まだ見せてない縦スラを外の低めへとサインを出した。三塁に走者を背負った場面で、叩きつけてワンバンになるリスクのある球ではあるが、今岡の外への目付けが狂っている今なら少々外れても振ってくる。つまりストライクは要らない、これで決める。そしてそのサインに以心伝心の佐藤道は肯くとセットを解き左脚で踏み込みグラブを高く突き上げた。
その瞬間、
” 行ったっ! ”
一塁から大きな叫び声が飛んだ。
佐藤道は咄嗟に、絶対に刺すという野村の言葉を思い起こし高めに外す。野村は二塁への送球にすべてを集中させながらも、三塁から景浦のスタート次第で声が掛かるのを待った。
ウエストしたボールは真ん中外寄り、立ち上がるとちょうど胸の位置で、捕球に合わせて右に流れればそのまま送球動作に入れる絶好の高さであった。
” 確実に刺せる! ”
野村は三塁からの合図を送球の瞬間まで待つ覚悟で腰を上げる。同時に視界の片隅で、セカンドに向かう藤村の姿を確認しようとした。止まったり途中で足を緩めれば躊躇わず佐藤道に返す、一瞬にしてそこまで頭が回った。この場面における野村の一連の対応は、試験であれば間違いなく満点である。しかし、そこに動くものはなかった。
” 偽走?! ”
” ・・・・罠!! ”
野村がそう戦慄した瞬間、今岡のバットが半身に構えた野村の目の前に現れた。いろんな処理を同時に、そしてそれらを一気にこなそうとする野村の頭の回転速度に反し、それは実にゆっくり、ゆっくりと野村の視界の前を通り過ぎていく。
” しまったっ!!! ”
今岡がバットを一閃する。その姿はまさしく一撃必殺の大根斬りであった。

乾いた音を立てた打球はセンターの左、終盤になりさらに強くなった浜風が押す。手応えで確信した今岡は豪快にバットを放り投げた。
ボールは心地よく、諸手を挙げてそれを迎えようとする観客目掛けて舞い降りる。
起死回生の同点スリーラン。甲子園を大歓声が覆う。360°総立ちのスタンドのパノラマが揺れていた。
野村が一塁を見た。おそらくその眼は、抗議の怒りに満ち溢れていたのであろう、松中は震え上がってファーストミットを横に振った。
歓喜の雄たけびを上げて景浦が野村の前を横切り、そしてまるで自分が打ったかのようにヘルメットを掲げて手を振り続ける藤村が続く。
「ノム、わしやわしや!」
藤村が答え合わせをするかのように言った。
カウントがツーワンでなければ、佐藤道はウエストしなかったかもしれない。ボールの握りがスライダーでなければ、もっと外へはずせたかもしれない。松中ともう少し練習を重ねていれば、声を間違えることはなかったかもしれない。野村の頭の中を、いくつもの ” If ” が行き交う。そして目の前を、万感の想いを胸に刻む今岡が通り過ぎていくのであった。
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