スタンドがどっと湧いたので、プレーボールが掛ったことが判った。試合が始まると、どよめきは一球ごとに波のように繰り返される。ブルペンへ続く専用通路を歩く村山の肩や腹の底にまで、それは圧し掛かり響いた。
阪神ファンの存在のありがたさに感謝しながらも、勝敗どころかゲームの流れ次第では底知れぬ負のマグマに転ずることへの自戒。良きにつけ悪しきにつけこれだけの応援は、とても一人で支えきれるものではない。
だというのにマウンドで打席で守備位置で、選手は往々にして錯覚を起こす。いわゆる甲子園に魔物が訪れるというのは、たいがいそんな刻である。
村山は昨日の練習後に開かれた最後のミーティングでの、藤本の言葉を思い起こしていた。
” 自分と仲間を信じろ。
目の前の敵のことは何も考えるな。鶴岡との勝負はわしが引き受ける。必ずけりをつけてみせる。
もし試合中に悩み迷い臆したならば、自らを鼓舞し、仲間を励ますことを忘れるな。それでも心が揺れるなら、これから交わす三つの約束を思い起こして欲しい。
投手は全力投球、思い切って腕を振れ。
打者はフルスイング、狙えると思ったら、迷わず一発を狙え。
そして全力疾走、いかなる時も決して諦めるな。
この三つを約束してくれ、・・・・ いいな。
われわれは必ず勝つ、思う存分暴れて来い。 ”
静かにそう告げる藤本の目は光っていた。その言葉は確かに檄であったが、選手たちに伝えたかったものとは、三つの約束であることに間違いはなかった。
村山はマウンドに上がる自分を想像し、その時は藤本との約束通り、腕を振ることだけに集中するよう心に決めた。

試合は重い入りとなった。立ち上がりの小山は悪くはなかったが、追い込んでから決め球のパームを幾度もカットされ、なんとか井口、新井を打ち取ったものの共にフルカウントまで粘られた末の二死であった。
ストライクゾーンの感覚がしっくりとこないのか、三番松中に対する初球、アウトコースへ外したはずのストレートがやや中に入った。失投を見事に振り抜いた松中の打球は鋭くレフトポール際まで伸び、そのまま最短距離でアルプスに飛び込んだ。
甲子園のスタンドは一瞬で静まり返る。ブルペンに備え付けられたモニターに、顔面蒼白となった小山の表情が映し出されている。村山はライバルがマウンドに上がれば、打たれろ打たれろと思ったものである。当時のブルペンからでは、投手の表情まで伺い知ることはできない。あの頃これがあればそんな底意地の悪いことは思わなかったであろう、村山はそう心の中で懺悔するとスタンドの異様な雰囲気にある種の恐怖を抱きながら、藤本の指示通りブルペンで肩を作り始めた。
注目の四番野村の一打席目はファーボールであった。小山が制球を乱したというわけではなく、野村へは何より初球、そしてファーストストライク絶対警戒という藤本からの厳命が裏目に出たのかもしれない。
小山のストレート自体は手元で来るようになったことが、画面からでも田淵のミットの音を通じて伝わってくる。しかしここまでですでに球数は二十球を越えた。継投が前提であるため疲労を考慮する必要はない。問題は持ち球やボールの軌道を必要以上に見られたことをどう捉えるかであった。
鬼門の門田に対しては、バッティングカウントから投じたパームを引っかけてもらいチェンジとなった。ストレートの伸びがあってこそのパームであることをバツテリーは再確認していた。
初回なんとか一点で凌ぐ冷や冷やの立ち上がり。バックを支える野手たちに、それがはたしてどう映ったか。痺れる試合になるとことは間違いない。そういった予感はえてして選手に不安を与え、集中力を削ぐものである。
対する阪神も先発の斉藤を攻め、赤星が三遊間に叩きつけ内野安打で出塁した。ショート広瀬の動きはやはり硬かった。ホークスのショート起用を巡っては、井口か広瀬かで割れたはずである。プロでの遊撃手としての出場試合数に勝る広瀬に賭けたのか。いずれにしても外野の経験がほぼないながら身体能力の高い井口をレフトに配し、長らく守備機会のなかった門田にライトを託す超攻撃型布陣となった。両翼の二人は逆でも良かったのではと藤本には映った。強い浜風を意識しての起用だとしたら、鶴岡が甲子園の外野をどう捉えているのか訊ねてみたくなった。
赤星が出塁したことで、甲子園はもう勝ったとばかりの騒ぎである。二番吉田は送りバントやエンドラン、なんでもできるという腹積もりが期待値を自然押し上げる。じっくりいこうぜの声も飛んだが、藤本の打った手は初球ディレードスチールであった。相手の足が地に付かないうちにという意図なのか、それとも付いているのか試したのか。
だがホークスは慌てることなく、まず斉藤は完壁なクイックとウエスト、松中も大声でスタートを伝え、そして野村はそれに応える完壁な送球、まさに共援共助で赤星を刺してみせた。チーム一丸となり、肩が弱点とされる野村を守ろうとしている。扇の要の野村を中心に、ホークスは一つにまとまろうとしているようであった。
そしてなにより初回に一発で先制したことで、ホークス全体に落ち着きが行き渡りはじめていた。それを見せつけられたスタンドからは大きなため息が漏れた。百戦練磨の小山をして色を失わせたのはその由であろう。
赤星を走らせるにしても並行カウントまでなぜ待てなかった、ベンチ以上にファンから失望の声が上がる。直後に吉田、掛布の連打があったため、よけいに悔やまれる先頭打者の盗塁死であった。
結局、田淵が6ー4ー3のおあつらえ向けのゲッツーを喫し、初回、三安打を放ちながらも得点できなかった。阪神打線は最悪のスタートを切ることとなった。
小山は二回、三回を三者凡退に抑えたが、初回同様に球数を要した。パームで空振りが取れないことから、それを見せ球に切り替え、最後は速球勝負であった。ストレートのMAXは148㌔。ゆえに芯を喰った打球は多く、次回以降の登板に黄信号が灯った。

斉藤は終始コントロールが定まらず、二回はバース、三回は真弓と先頭打者を歩かせたが、要所は160㌔を計測した速球で押し込んでみせた。らしい投球と言えた。
ホークスの投手リレーを逆算するなら、9回、8回は杉内と和田。野村いわく、たとえONであっても初見では打てないという二枚の絶対的な左腕を据え、あえて言うならそこまでどう辿り着くかがベンチワークであった。
おそらくは三回までを斉藤、六回までの3イニングを杉浦、二人のエースで一回りずつを凌ぎ切り、7回は皆川、スタンカ、佐藤道の三人が、一人一殺で乗り切るというシナリオを描いているのであろう。となると残されたイニングはあと四回。阪神の選手は誰もが砂時計の上の器にいるような気分に陥っていた。
四回表から登板した江夏は、先頭の左打者の松中を、初回のホームランを意識し過ぎたのか歩かせた。思わず田淵がマウンドへ歩み寄る。二言、三言会話を交わした後の野村への初球、カーブが真ん中に入り、見事にー振りで仕留められた。打球は初回の松中同様、ポールを巻いてアルプスに消えた。藤本はベンチで ” ユタカの奴っ! ” と語気を荒げて帽子を叩きつけた。

野村が何度もガッツポーズを繰り返しダイヤモンドを一周し、甲子園は再び静まり返る。敵地ながらホークスの選手の方が伸び伸びとプレーしている。それを目の前で眺めるトラキチたちの歯軋りの音が聞こえてくるようであった。
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