「実を言えば、藤本監督が村山さんにどうしても訊きたいことがある、そう話されています。」
突然田淵にそう切り出され、一瞬何を言われたのかわからなくなったが、身体はすぐに身構えていた。
「・・・・直接話せないのか?」
藤本の声を聞きたいというのもあるが、それが一番早いようにも思った。
「回線を用意できないんです。こうして村山さんと話すのが精一杯で。」
「俺らがこうして連絡を取り合うことも、本来はできないということか?」
「はい・・・・、残念ながら。」
田淵は小さな声でそう言った。あの大きな身体を、時計片手に小さくしているのであろうか。
二人でこうして話すのにも、四方八方手を尽くしてやっと可能になった、藤本さんが今の時代のインフラを使いこなすのは無理だから、手紙でやりとりしていると田淵は言った。親の代から懇意にしている新聞社の上層部の伝手を活かして、なんとかムラさんの居所を突きとめましたと付け加えた。
おそらく自分たちはその秘匿性から、互いに連絡を取り合うことは御法度なのだろう。

「藤本さん、俺に何を聞きたがっているんや?」
「ええ、藤本さんからの手紙を読みます。ーーー
”昭和39年の日本シリーズ、その直前にムラから声を掛けられた。どうしても伝えておきたいことがあるのだと。
しかし、それは叶わないままに日本シリーズを迎え、われわれは南海に敗れ日本一を逃した。私にとってあれが最期のチャンスであった。
ムラと話ができなかったことを後悔している。もしあのときのことを覚えているのであれば、今からでも遅くはない、ぜひ聞かせて欲しい”
村山のなかで、あの年のことがまざまざと思い起こされた。良い思い出も哀しい記憶も、カードのように一枚一枚が頼まれもしないのに目の前に配られ、そして動き出す。
昭和39年のシーズン、村山にとって色んな意味で特別であった。
年が明けるとにわかに世の中は、秋にオリンピックやってくる高揚感に覆われはじめた。
アジア初の冠を掲げてはいたが、人々は敗戦国である日本で世界最大のスポーツイベントが開催されることに、ひとしきりの喜びを感じ、それを共有しているようだった。
プロ野球もオリンピックへの協力を惜しまず、シーズンがオリンピックと被らないよう開幕を三月後半へと二週間以上前倒しした。日本シリーズを十月の頭までに終わらせるための配慮であった。
暑い真夏のヤマ場を越え、パリーグは南海が九月の半ばに優勝を決めたのに対して、セリーグのペナント争いは織烈を極め、最後の最後までもつれた。しかも天候不良による順延が繰り返され、阪神が優勝を決めたのは九月三十日であった。
日本シリーズの開幕は当初の予定より二日順延され、十月一日。阪神はリーグ優勝を決定した翌日に、日本シリーズに臨むという強行日程を強いられることとなった。
村山は優勝争いのその渦中で、もし優勝したら対戦相手となる南海について、藤本に伝えたいことがあると申し入れていた。しかし三原大洋との間で繰り広げられたデットヒートにピリオドが打たれる気配はなく、もし優勝したらという仮定のうえでのことなど、すべて後回しとなっていった。負けたら終わりという緊迫した日々の中で、そんな余裕はどこにもなかったのだ。そして妻の死・・・・・・・。
結局阪神は、ナイターで開催されたシーズン最終戦に勝って優勝を決めた。喜びに浸る暇もなく、明日からまったなしでの日本シリーズ。いうまでもなく開幕投手を任されたのは自分である。
村山は胴上げの後、登板に備えるべく後ろ髪を引かれる思いでビールかけも早々に切り上げ甲子園を後にすることとなる。藤本と話す時間は作れないままであった。

開幕戦で村山は力投するも味方のエラーや二本の犠牲フライで敗戦投手になると、逆にこちらに藤本と話すような余裕はなくなった。結局、村山はシリーズ中に三敗を喫し、阪神は日本一を逃した。
「ムラさん、藤本監督に何を伝えようとしたのですか?」
田淵が訊いた。
「ああ・・・・。」
村山は言葉を濁した。
「実は藤本監督、自信を無くしているようなんです。」
「なぜ・・・・、何があった?」
吐嵯に村山が訊く側に回る。具合でも悪いのかと畳みかけた。
「体調は大丈夫のようです。問題は初戦の相手なんですよ。」
「どこや・・・・、まさかいきなり巨人か?」
緊張が走った。それが手に取るようにわかり、自分が自分であることを再確認していた。
「いえ、ホークスなんです。それで元気がなくなったようで。」
「・・・・南海か・・・・。」
藤本にとって心を波立たせる変数。それは巨人以外にあるのか。もしそれがあるとすれば何か、そして藤本と南海の組み合わせ。村山に思いあたる節がないわけではなかった。
「ホークスの監督、鶴岡さんなんやろ。」
「ええ、よくわかりましたね。まあ順当ではあるんですが・・・・。
王さんや野村さん、根本さんもホークスの監督をしましたからね。一応、僕も。」
藤本が何を自分に求めているのかわかったような気がした。もう田淵の言葉は必要なかった。
「藤本監督に言ってくれ、確かに伝えるとな。」
気持ちが昂ぶり、時計に向かう声が自然と大きく、そして弾んでいた。村山の脳裏に鶴岡と二人、差しで会った日のことがありありと甦っていくのであった。
なお、当サイト内において、『球界転生』 だけは、文章の転載をご遠慮ください。既に転載している場合は直ちに削除してください。他は好きにしていいです。
ご協力ありがとうございます。