19時きっかりに赤いベルトの腕時計が震え出した。
村山は少しとまどいながら、時計に耳をあてた。
聴こえて来たのは懐かしい声であった。
「村山さん、お久しぶりです・・・・、田淵です。」
「・・・・ブチ・・・・久しぶりやなぁ。」
「ふたたびお話しできる日がくるだなんて・・ 。」
「ああ・・・・。」
少し感傷的になっていた。それ以上の言葉は出なかった。
幼い頃、近くの尼崎の浜辺で貝を拾って集め歩いた。気に入った模様のものを見つけると、なぜだか無性にそれを耳にあてたくなった。兄になにか聴こえるのかと訊ねられ、吐嵯に恥ずかしくなって貝を隠した。でももう一度それをせずにはおれない。幼い村山にはなにかが聴こえたのかもしれない。確かになにかが・・・・。
「一緒にまた野球ができます、光栄です。」
時計から聴こえてくる田淵の声がそう告げた。村山はその言葉を、甦ってからずっと待っていたような気がした。

田淵は村山と違い年を喰ったが元気にはしている、来年には八十になると言った。
田淵はちょうど十歳下である。俺は生きてりゃ九十になるのか。無意識のうちに張りのある手のひらを、人差し指の先で押していた。
そんな自分が二十代にまで一気に若返ってしまいました、電話の向こうの田淵は照れくさそうであった。その驚きはある意味、あの世から帰ってきたよりも大きいのであろう。
” プレシーズン・カップ ”
聞き慣れない言葉であった。初めて耳にしたかもしれない。公式戦の前にやる総当たりのリーグ戦だという。
田淵は続けた。
参加するチームは総勢六つ。阪神、巨人、そしてパリーグからはホークス、ライオンズ、ここまでが創設以来在籍した過去の選手で構成されるのだという。それをセリーグ、パリーグの現役選手の選抜チームが迎え撃つ。
村山は自分がここにいるに至った背景を、ようやく垣間見た気がした。視界がみるみる開け、さらに奥行きも加わり広がっていく。胸の中で張り詰めていたものが一瞬だが緩んだ。するとそこが窪みとなり、いろんな感情が混ざり合いながら流れ落ちてくる。だが不安や暗い予感はなかった。
掴めるかと手探りをした指先が、思いがけず得た大きな感触、それが田淵であった。やはりこの赤い時計が鍵だった。そして扉は開いた。
同じような境遇の人間が他にも大勢いるらしいことを知ったのも心強かった。空洞にも思えた心の中をなにかが満たしはじめる。それはどうやら暖かいものであるらしく、胸の内がぬくまっていくのを村山は感じていた。
期待や希望という目醒めてから抱くことのなかった感情も集まりだす。やがてはそれがこの身をいっそう引き締めることになるのであろう。

”夢の試合が繰り広げられると世間では注目を集めています。”
こともなげに田淵はそう言ってみせた。最大の注目は伝説の選手たちが集う四チームのプレーにあるとも。
その注目の先に、自分も含まれているのだろうか。もしそうだとして、人々は何を自分に望むのであろう。不意にカーテンも締まりっぱなしの雨戸も開けて、窓から外の景色や街並みを眺めてみたくなった。
今見れるものよりも、見れなくなったものの方が希少性が高いのは世の常である。人々の関心がどちらへ傾くかは言うまでもない。では、そこに ”ある” ものとすでに ”喪われた” ものの間でならどうか。確かめたくとも残念ながらそれは成立しない。
しかし数字の上でなら可能だろう。希少性の最大値が ”ゼロ” である以上、二つを並べてみることはできるはずだ。だがそこまでである。結局はバーチャルの世界へ足を踏み入れるのが関の山。その枠を出ることはない。
ところがである。現実と虚構の間に引かれた境界があやふやになり、それが今、地続きとなった。まさに自分はその上を歩いている。それも一人ではない。道すがらできっと仲間も見つかる。行く先はまだわからないというのに、気持ちが先へ先へと進んでいくようであった。
”確かに夢の対決なのかもしれない。”
そして自分たちは恐竜と同じであった。村山はあらためてそう思う。
不意に甲子園のマウンドやベンチの中の景色が脳裏に浮かび、スタンドの歓声が耳に届いた気がした。懐かしいなにもかもが一気に目の前を走る。
そして、
「うちの監督は誰なんや? 」
勝手に想いが口を動かした。
田淵は静かに答えた。
” 藤本さんです ” と。
・・・・・・・。
村山は目を閉じた。藤本の姿が、そして声が、隈なく甦っていく。
「村山、飛ばない帽子を買ってやる!」
「俺はこれが気に入ってるんで、替える気はないです。」
この会話で二人の関係は始まった。
誰が巨人の元監督なんかを、そんな態度で藤本を迎えた。
「おまえを三十勝投手には絶対せぇへんで!」
面と向かってそう言われた時は頭に血が上った。
「商売の邪魔はせんとってほしいな。」
そう食って掛かったが相手にもされなかった。
それが酷使をしないという意味であることを、しばらくしてから知った。
言葉はキツいが、濃いまつ毛に縁どられた目はいつも優しかった。古狸と陰口を叩きながらも、誰もが藤本を慕うようになった。

もう一度藤本の下で野球がしたい、引退の間際、村山はそんな思いに駆り立てられたことがあった。叶わぬと知りつつ、切ないまでにそれを願った。
伝説のエース、沢村やスタルヒンがそうであったように。
なお、当サイト内において、『球界転生』 だけは、文章の転載をご遠慮ください。既に転載している場合は直ちに削除してください。他は好きにしていいです。
ご協力ありがとうございます。