昭和47年の菜種梅雨は思いのほか長かった。空を見上げなくとも腱鞘炎で冷たくなった右手の指先が、気圧の加減に敏感に反応し、雨雲が居座っていることを教えてくれた。
雨は上がらないかもしれない。
甲子園内の一角にある室内練習所の隅で腰を下ろし、熱湯の入ったバケツを眺めながら村山はため息をついた。

村山は熱くなったアルミのバケツの縁を、まず右手の指先で軽くなぞってみた。熱は伝わってこない。それを確認してから、バケツに手を入れ、熱湯に触れるか触れないかギリギリのところに軽く右手のひらをかざす。しばらくすると、湯気が村山の指先を温めていくのがわかる。やがてそれは血管にまで行き渡り始めるのだが、なかなか筋線維には辿り着かない。
じれた村山は熱湯に右手を浸ける。熱が痛みとなって頭のてっぺんまで一気に駆け上がった。赤くなっただけの指先や手のひらを眺め、もう一度最初からやり直す。何度かそれを繰り返すなかで熱湯はゆっくりとほどけはじめる。頃合いをみて村山は熱湯の中に五本の指を浮かべ、そして感覚が戻ってくるのを我慢強く待つ。血行障害の右手を温めるためのいつものルーチンである。
村山はバケツに手を突っ込みながらも、その間ずっと周りに目を光らせてはいる。だが選手たちのやるキャッチボールやトスバッティングには一向に身が入る気配はない。気になるのは空模様やグランドの状態だけなのであろう。

雨の日は、普段は野太い選手たちの声のトーンが上がる。雨の振りが強くなったのだろうか、それはいっそう高くなっていく。仮に今日も中止になれば、手薄な投手陣が夏以降の連投に耐えられるか、村山は不安になったが、その投手たちにしても嬉しそうに入り口の壁にしかない窓から外を眺めてはしゃいでいる。
若いチームやから仕方ないか・・・・。
村山はもうーつため息をついた。

前年のオフ、フロント主導で進められていた金田正泰のヘッドコーチ起用の案に村山は乗った。現役の投手と兼任である以上、自分がベンチにいない間を託せる年長のコーチがいるだろうということであった。
もしもう一度投手としての自分の能力を覚醒させることができるとしたら、 今年が最後だという思いもそれを後押しした。江夏、上田、古沢に、田淵、藤田平と巨人に対抗できる若い戦力は整い始めている。己惚れかもしれないが、戦力としての自分がどこまでやれるかがペナントの命運を握るように思えた。
勝てばすべてが上手く回る。
巨人の連覇を止めて阪神が優勝する、そのための最後の One Piece に自分はなれると村山は賭けに出たのだ。
金田はヘッドコーチ就任早々、村山の頭ごなしに本社の重役たちと連絡を取り始めた。すでに上では自分の貶黜の話まで出ている、親しい記者からそんな話を聞かされた。金田をヘッドに据えたのはそのためなのだと。
金田は一応監督経験者である。だが代表の戸沢との折り合いが悪く、わずか一年半でシーズン中に更迭される憂目に遭っていた。その失敗は二度と繰り返さない、今回こそはと期するものがあるのだろう。金田はシーズンが始まる前からその野望を隠そうとしなかった。
一方球団はといえば、金田をヘッドに置くことで、自分が使いこなせるのかを試している。それらの謀に対して村山は受け身になるばかりであった。
試合の中盤以降、守護神の村山はブルペンへと向かう。その留守の間、チームを金田に預ける。仮にその構図が金田の企みを加速させたとして、果たしてそれを正すのは自分の役割なのだろうか。十歳以上も年配で、ある程度の常識は身に着けているであろう男に対して、何を言ったところで無駄ではないのか・・・・。
なにもかもがすべて自分の知らないところで既に決まっていて、ここから何を試みたところで徒労に終わるのではないか、村山は別の恐怖を味わっていた。
室内練習場に金田が現れた。多くの番記者を連れて満足そうに歩いてくる。バケツとにらめっこしている村山には一瞥もせず、途中で歩みを止めると柄にもなく記者の輪の中でおどけて見せた。笑い声が起こる。やることがなく時間を持て余していた数人の選手が振り返り歩み寄っていく。輪が二重にも三重にもなり、その中心の金田はまるで監督である。村山は目の前の光景をそれ以上正視できず、再び視線をバケツへ戻した。

「ムラよ・・・・、頭下げたらどうや・・・・。」
声の主が藤本であることはすぐにわかった。
藤本は阪神の監督を退いた後も神戸に住み続け、評論家活動をしていた。
村山は顔を上げようとせず、黙って間合いを作り藤本の反応を伺った。
「間に入るで、戸沢さんでも、野田さんでも。」
藤本はバケツの中の村山の右手を見つめながら言った。
村山はなおも黙り続けた。
「見てられへんのや、おまえを・・・・。
まるで俺への復讐の身代わりになっているようでな。」
村山はその言葉で我に返った。藤本の示唆する先が怖くなって色を失い、逆に返事に詰まった。

十五年前、金田は投手コーチの藤本によって監督の座を追われた。金田が今やっていることは、あの時藤本が取った行動をそっくりそのまま真似ているのであった。村山を引き摺り下ろすために。
「何を、どう謝るんですか ?」
藤本の言葉によって、これからわが身に降りかかるであろう結末に向き合わされた村山であったが、それでも現実を直視できず話を逸らした。それが精ー杯であった。
「十年・・・・。まずは、巨人より十年遅れてると言うたあたりからか。」
やはり十年か。村山は藤本を初めて見上げた。藤本は腕を組み、まだバケツの中の村山の手を見ている。
「せやけど藤本さん、阪神はずっと巨人に負けてていいんですか・・・・?
巨人はずっと優勝、阪神は万年二位・・・・。
僕は巨人に勝ちたいんです、巨人に勝つためには、それしかないやないですか。」
偽らざる本音ではあったが、誰にも訊いてもらえない鬱憤を、藤本にぶつけて甘えたのだ。
「おまえのその気持ちはわかってる。」
藤本は出口のない隘路で彷徨う愛弟子を救いたい一心である。
村山は藤本から言葉を掛けられてもなお不満であった。村山の複雑な胸の内に横たわる大きな塊、それは阪神の選手であるがゆえの葛藤なのだ。初代讀賣巨人軍の監督でもある藤本に、そう簡単にはわかったなどと言ってもらいたくはない領域でもある。
村山が藤本から得たい共感とは、今の自分を俯瞰するのでも大局的な見地で点検するのでもない。あくまで阪神の立場から同じ目線で同じ角度で、巨人との関係を眺めてもらうことであった。
「藤本さんは巨人の人間でもあるやないですか。」ーーーーー 心の中でそう言った。
しばらく沈黙が続いた。押しとどめた村山の言葉が、自然藤本に伝わったのかもしれない、いや、藤本もそこは心得ていたのかもしれない。バケツの中の熱湯がぬるくなり、再び村山の指先を冷たくしていく。
腕を組み思案を続けていた藤本が、呻くように口を開いた。
「なぁムラよ、巨人のようなチームがもう一ついるのか・・・・?」
藤本はポツリとそうつぶやくと、その言葉を村山へ預けるように去っていった。
藤本とは入団二年目からの長い付き合いである。だがそんな言葉を掛けられたのは初めてであった。少なくとも巨人との関係においては。
大阪のチームとして徹頭徹尾東京の巨人を敵視し、その剥き出しの劣等感を試合にぶつけろと煽る。その一方で巨人の強さについては認め、学べるところは手に入れようともする。まず藤本自身の存在がそうであるし、藤本の一存で青田を入閣させたことでもそれは伺えた。
どちらにしても巨人に対しては押すか引くか、二つにーつ。村山が強く握りしめる綱の先には必ず巨人がいるのだ。それだけに藤本の言葉は意外であった。
ここまで歯を喰い縛って手にしてきた綱を、いまさら離せというのか・・・・? それはそれで切ないことである。
村山はその意味を問いたくなって、咄嗟に立ち上がって藤本の背中を練習場の中に探した。 しかしもうそれを見つけることはできなかった。
藤本が巨人の監督をしていた当時、親会社である新聞社への不信から、辞表を出したのは一度や二度ではなかった。そのたび、自分を慕う選手たちのことを思い撤回した。戦中の話である。村山はそのことについて知る由もない。

五月を待たず、村山は投手へ専念するとして指揮権を返上した。しかし往年の投球が甦ることはなかった。
そしてその年の秋、巨人が八連覇を決めた直後に村山は引退を表明することとなるのであった。

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