甲子園内にある球団代表室で二人は向き合っていた。
目の前の戸沢の心の奥を覆うのが悲しみであることはすぐに見て取れた。村山の監督就任会見での発言が本社の怒りを買い、戸沢はまさにそのその矢面に立たされていたのだ。
村山は戸沢に素直に頭を下げ、本社に直接出向いて赦しを請いたいと願い出たが返事はなかった。疲れからなのか戸沢の顔色はいくぶん悪いように映った。
前日、隣にある広間で、笑顔の二人は無数のカメラのフラッシュを浴びながら固い握手を交わしたばかりである。それが今、二人の間にあるのは不信だけであった。それ以外には何も見当たらない。その変質の在り様に、時間という概念は存在しなかった。今となっては昨日のことさえ、随分と前のことのように感じるほどなのだから。
事態は激しく、そして大きく動いていた。二人は共に翻弄され流されてくのである。この流れを止められるものは、少なくとも阪神球団の中にはいない。それが戸沢の悲しみの色を濃ゆくするのである。

すべては面子の問題であった。
電鉄本社からすれば阪神球団は関連会社のーつである。そこの代表であっても、本社では本部長クラスだ。社長は担当部長、その下で現場を預かる監督なんてものは、しょせん課長レベル。まして三十代半ばとなれば、本社ではまだケツの蒼い係長程度に過ぎないと。
しかし皮肉なことにタイガースの名は全国区である。一方の阪神はどうかといえば関西でも大阪から神戸を結ぶ線を持つだけの老舗、所帯の小さな電鉄会社である。本社にはそのギャップから不満を持つものが少なくはなかった。
球団は電鉄にとって中興の祖である野田の道楽だと、あからさまに見下す者もいるぐらいなのだ。
巨人より十年は遅れているだと。
なにが球団と選手が一緒になって追いつくだ、
あいつは何様なんだ。
係長風情が何を生意気に、きっとそう映ったのだろう。
村山は戸沢に詫びの言葉を並べ続けたが、その途中で促されるように代表室を出た。戸沢は終始無言である。戸沢と村山の関係が、今まさに崩れようとしていた。
去り際、戸沢はやっとの思いで口を開いた。
「野田さんも、ここのところ元気がない・・・・」
それは村山へ向けられた別れの言葉であった。
昭和33年の秋、村山は巨人から受けた前年の長嶋を上回る条件を断り、その四分のーの契約金しか提示できなかった阪神を選んだ。それは大学の先輩で球団代表でもあった田中義一への恩義を重んじたからであった。
田中は病床にあってさえ、後輩である村山の術後の肩を案じ、そして阪神入りを願った。村山はそれに見事に応えてみせた。
村山と田中の関係は愛情に満ちたものであった。それを礎にオーナーの野田が引き継ぎ、戸沢は当然のごとく倣い、球団と村山の関係は特別なものとなっていった。

戸沢は基本的にはビジネスマンである。万年青年のごとく夢だけを語るような男ではない。最終的には折れたが、当時本社社長であった野田からの再三にわたる球団代表の打診を断り続けた。あくまでも本社での栄達を望んでいたからだ。
戸沢は誰よりも経営について熟知していた。そこは粛然と自負するところでもあった。だからこそ、その限界への理解も深かった。
球団経営に際してもその哲学は当然貫かれた。だがその戸沢をしても、一球一球、全身全霊を込めて巨人に立ち向かおうとする村山の姿には心を動かされずにおれなかった。
だが田中や野田のそれとは違い、溺愛という質のものではなかった。戸沢は実務派として、ぎりぎりのところまで村山に片寄せしていたのだ。
村山と小山や吉田を巡る確執。度重なる血行障害や腱鞘炎、内臓疾患による入院。そして改名・・・・。それらの心身の不調と迷いを示すように、わずか五球投げただけで球審に抗議し退場を喰らったこともあった。そしてそのとどめとばかりに起きた家庭の不幸。戸沢はそのたびに誰よりも理解者として村山に寄り添った。

このたびの新監督就任にあたっても、本社からは年齢の順でと吉田擁立の要請を戸沢は受けていた。その動きを封じ、戸沢は文字通り身を挺して村山を守った。そしてその仕上げにと吉田に引退を促し、村山新監督の土台均しまでした。
球団代表と一選手との関係を越えたこの偏愛の傾斜こそが、 村山が別誂えの選手たる証なのである。
そして選手としては衰えた村山が青年監督として結実する、その場で、しかもあろうことか戸沢の目の前で、阪神は巨人より十年遅れている、村山はそう言ってのけたのであった。
戸沢は久しく出会うことのなかった球団経営の限界に思い掛けず向き合うこととなった。本当はなによりそれが悲しかったのかもしれない。
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