外角低めに決まったかに見えた完ぺきなフォーク、球審島の判定はボールであった。
熱く煮えたぎった自分の身体から、血の気がスーッと失せていくのが判った。
まだ2-2。余裕のある場面や、
身体の反応とは裏腹に、あくまで強気を装い内裡に向かってそう言い聞かせる。あの球があるやないかと。
ボールを返す山本哲の細い目も、そう語りかけている。前日、内角高めを振らせ、三振に斬って取っていたからだ。

対角線。
確かにそうだ、アウトコース低めの次はインコース高め、フォークの次はストレート。
リードの定石。ミエミエかもしれないが、打席でアウトローのフォークを見たその残像は、打者の脳裏に確実に残る。人間の眼というのは、そう簡単についていけるものではない。まして自分の球威なら。防御率一点台というのはその証ではないか。
スコアボードの上の時計が9時12分を指している。残された時間はあとわずか三分であった。
その日、マウンドに上がる前から変な感覚があった。少し内にズレたらデットボールになる、そんな胸元への球を投げることに、ためらう自分がいたのだ。
球審のフォークの判定に対し、血が上ることもなく、逆に血の気が引いたのはおそらくそのせいだろう。
あの球しかない。だが・・・・。
両陛下の前で、柄にもなく他所行きになっているのかもしれない。

見送られたら2-3、立場は一転打者優位に変わる。えげつないところへ行くのはよそう。まして先頭打者やからな。
投げるボールはわかっている、ろくにサインも見ずテンポよく振りかぶる。そして挑みかかるように左脚を蹴った。足元から起こった揺らぎが、らせん状に上がっていく。その最後の仕上げに渾身の力で腕を撓らせボールを切った。いわゆるザトペック投法から放たれたインハイのストレート。

打席の長嶋は昨夜のあのボールだと左腰を開く、そこまではバッテリーの想定通りである。しかし、左肩はまだ残っていた。
えっ・・・・、
バットが一閃し、
そして光った。

打球はあっという間にレフトスタンドに消える。
ポールを巻いていないようにも映った。
何事も起こってはいない、自分だけならそう信じることは可能かもしれない。
だがスタンドはすでに歓声と悲鳴が幾層にも重なり合い、 今にも崩れ落ちそうである。
唇を噛み、視線はマウンドに落ちた。膝に置いた両手がそれを支える。
うなだれているんやない、蒼ざめたこの顔を見せたくはないんや。

あらためてファールの線はないかと、未練がましくレフトスタンドを見やる。その途中で帽子を高く振って歓喜する水原の姿が目に入った。
もうここに居場所はない。一度上空を見上げると、舞台からはけるように村山は三塁ベンチへと向かう。右から迫ってくる長嶋の足音が聴こえる。マウンドの傾斜だけがやけに優しかった。

夢はいつもそこで終わった。終生つきまとう記憶。甦ってからこの夢を見るのは初めてであった。
死んでもリセットはされない。延長戦ということか・・・・。
悪夢ではある。しかしそれを見ることは自分の原点を確認する作業でもあった。
長嶋に打たれ、村山は天覧試合で負け投手となる。しかし皮肉にもあのホームラン、あの試合、あの敗戦が村山の名を高めていくのである。
別誂えの選手。
長嶋がそうであるように、村山も世間はそう見るようになっていった。そんな扱いを受けたことは一度もない。これまで持ち合わせたどの感情とも重ならない、何かが自分のなかで芽生えていくようであった。
あの日、悲運のエース、”ミスタータイガース 村山実” は誕生したのだ。

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