Till Eternity

どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・

アマチュアスポーツ界 指導者に思う

 ちょっといろいろあって時間が出来たので、この隙に正月明けからあったことについて書いてみたいと思う。

 まずはこれ、

hochi.news

 まぁ私はサッカーにはそれほど興味がないので、あれこれ言うのは憚られるのであるが、ちょっと書かせていただきます。

 まずこの方で思い返すのはこの記事、

www.sponichi.co.jpお

 この方のバイタリティに影響を授かる形で、高校野球の指導者たちの多くが大型免許を取得するようになりました。そういう意味でも、広くアマチュアスポーツ界に残した功績は大きい。まさに ”高校サッカー界の巨星墜つ” である。

 ではというのもなんであるが、高校野球界でこの方に匹敵するのはもちろん、

www2.myjcom.jp

 この人でしょうね、恐らく。

 実はご存命の頃からこの二人が織りなすコントラストに興味がありました。まぁ年齢が二回りほど離れているので世代の違いで片づけられそうですが、頂点を極めたスポーツ有力校の指導者であると同時に、県立高校の教師という観点でいうと、高校野球側ではこの人しかいまい。渡辺さん(元横浜高校)とは年齢的には合うのですが、私立だし、途中から教師に転じているので、やはりそこは蔦さんかなぁと。

 でっ、まず、小嶺氏ですが、終戦直前に長崎で生まれ、父親を戦争で亡くし母子家庭。貧困下で七人兄弟の末子として苦労して育った末に大学を卒業し、高度経済成長の最中に母校である島原商業に商業科教諭として赴任。

 一方の蔦さんは大正の最晩年、徳島の旧家の一人息子、つまりええしのボンとして生を受けるも戦禍の中特攻隊員となり、幸い出撃前に終戦を迎え、その後、ノンプロやプロ野球選手を経て、戦後のどさくさに紛れる形で池田高校に社会科教師として着任。

 小嶺氏は77年にインターハイで優勝し、84年に国見高校に異動。以降同校で選手権を六度制し高校サッカー指導者として不動の地位を築く。

 蔦さんは着任から二十年後の71年にようやく甲子園に出場。三年後に選抜準優勝。その後も池田高校の全日制と定時制を往復する形で同校の監督を続け、遂に82年夏、翌83年春甲子園を連覇。池田高校は空前絶後の人気校となった。

 小峰氏は県教育委員会から離島赴任免除の特例を引き出し、97年から国見高校の教頭に昇進、2000年からは校長に就任。定年を迎えた06年まで引き続き総監督として同校の指揮を執り続けた。

 蔦さんは連覇後、86年の選抜優勝を除くと低迷期に入り、88年の夏の甲子園出場を最後に92年3月をもって池田高校監督を勇退

 二人の最大のコントラスト、それは小嶺氏が着実に教師としての王道を歩んだのに対して、蔦さんは忘年会で酔っ払って教頭を旅館の庭の池に投げ込むようなアウトロー。出自が母子家庭の末っ子の苦労人と、名家の一人息子のボンボンの違いからなのか、対照的であると思ったものだ。

 正直言うと、小嶺氏が国見高校の教頭になったと知って、私はかなり驚いた。公立でこういうのがあるんだ、と。高校野球の場合も私立に限ると教頭になった指導者の方がいる。最近の例だと浦和学院の我らが森士。少し前だと大垣日大の阪口さんがそう。ただこれはどちらかといえば、高校の名を全国に知らしめ定着させた、その対価のように思う。本人は金さえもらえて監督を続けられればなんでもええんやろ、と。つまり、アマチュアスポーツの指導者で、しかも公立高校で、そこの管理職になりたい人がいるんだ、そう驚いたわけ。恐らく周りが担いだというのも大いにあるんでしょうね。まぁ名誉の問題なのかもしれません。

 でっ、その報を受けた時、私は咄嗟にこう思った。小嶺氏は校長にもなる。そしてその後選挙に出る、と・・・・。図らずもそれはホンマになった。そしてあえなく落選、

 

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 まぁ久間が足引っ張ったわけですが、やり過ぎの感もあった。結局長崎県民の目にも少なからずそう映ったようだ。小嶺氏にもともと上昇志向があったかどうかはわからない。

 蔦さん亡き後、同校には記念碑が遺った。

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 山あいの子らにとって、大海はどこまでも広かったが、海の男にとって、目指した山の高さでは満足できなかった、ということなのかもしれない。