Till Eternity

どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・

第103回大会 雑感 Ⅰ

 松商が負け、私の夏も終わりました。この極北のブログまでわざわざお越しいただいたみなさん、ありがとうございました。明日以降どうなるかわかりませんが、とりあえず予想はやめにして、うだうだとお茶を濁しながら完走を目指したいと思います。

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 正直8強の顔ぶれを見るのはツラい。”ヒール校” が五校もある。ヒール濃度高過ぎ、窒息しそう・・・・。

 それと近畿勢だけで五校というのも、

baseballking.jp

 だって大会期間中に戻って調整しなおしてるもん。地元のアドバンテージを活かし過ぎ! しかも近畿以外の2チームにしても、敦賀気比はメンバー20人中15人が、明徳は9人が近畿出身。地元に戻ってノビノビって感じでしょうか。不公平感極まりない。関東の皆さん、スイマセン! 代わりに謝っておきます。

 ただこれぐらい過去にあったのでは、とも思いましたがあれは選抜でしたっけ、6校というのは。そうですか夏は5校が最多でしたか、勉強になりました、ええ。

 そういえば、あの春の大会も雨だらけでしたね、池田が田んぼの中で東洋大姫路に負けた年ね。どうやらこういったはっきりした傾向がある以上、これからの予想は長期予報と天気図片手にやろうかなっ!

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 まぁ冗談はこれぐらいにして、異例尽くしの今大会を勝手に振り返ってみたいと思うのです。まず、去年もここで書きましたが、このコロナ禍で野手のバッティングレベル、間違いなく落ちてます、

tilleternity.hatenablog.jp

 野手は試合に出て経験を積み重ねない限り、ことバッティングにおいては殻を破ることは難しい。部活禁止期間があったり、蔓延防止で休日の移動が制限され校内の施設に留まっていては打者として伸びないのです。だけどこればっかりは嘆いても仕方がない。そろそろパンデミック後に向け踏み出す必要があるのかもしれません。具体的には、これまでのように土日はとにかく練習試合を組みまくって、そこで徹底的にバッティングを伸ばす、みたいなことはできなくなると考えた方が良いのではと。

 以前、練習試合の多さについて、ちょこっと古いですが横浜隼人の例を挙げて、休日はトリプルヘッダー当たり前、みたいなことを書きました・・・・、

tilleternity.hatenablog.jp

 もうそういう時代には戻れないかもしれない。つまり嫌な表現ですが、 ”withコロナ” を前提にしたチーム強化が求められて来ているということ。そして結果として案外それは、これからの高校野球の質を押し上げることに資するのではないか、珍しくも前向きにそう思うのです。

 じゃぁ具体的にどうすればいいのか・・・・?

 たとえば、PL学園の指導方法について学び直す、というのはどうだろう。

 白状するが私はアンチPLでした。それはPL全盛時の例の研志寮について、噂として漏れ聞こえて来るところを知り得ていたし、当時のボーイズの関係者が、”天才が天才を殺す” と呻くように喩えたその日常には驚愕しました。

 手塩に掛けて育て上げた優秀な中学生が、瞳を輝かせ入部するも挫折し、失意のままユニフォームを脱いだ、そんな経験が幾度となく繰り返され、二度とPLには選手を送らん、と袂を分かった指導者が一人、また一人と増え、その積み重ねこそが栄光のPL野球部を廃部へと歩ませたと私は思っています。しかもそんな地獄の環境を放置しておいて、「球道即人道」と公の場でいけしゃあしゃあと言って見せる指導者・・・・。救いようがないとすら思った。

 しかし悪い面ばかりではない。あれだけの名選手を造り上げたノウハウは、後世に渡り評価に値する。もちろんそれだけの素材を集めていたじゃないか、という声もあるだろうが、桑田問題以降、東六への進路も断たれ、シニアやボーイズの指導者も離れ、超一流の逸材が常に集まったわけでは決してなかった。それでも卒業生の質をどこよりも高く保ちえたその再現性こそが、PL野球を支えた屋台骨ではなかったか。

 PLについて書きたいことはまだまだあるのだが、とりあえず今回はこれぐらいにしておきます。

 ただあえて一つだけ続けるならば、PLの練習試合の少なさは、令和のこれからの高校野球の何よりのヒントとなる、そう個人的に感じている。また日々の練習時間も短かったという。それでよくあれだけの野手を、そして打者を育て上げた裏には何があったのか、どんなアドバンテージを彼らは手にして卒業したのか、そこに思いを馳せてみるのは意味のない行為ではないだろう。

 ここで一つの仮説を掲げたい。

 PLの選手は、今大会打席に立った各打者よりも、ミートポイントを平均して球一個分引きつけて打ってはいなかっただろうか?

 残念ながらこの検証はできそうにないが、私の個人的な印象としていえばそのように映る。ただ誤解がないように言っておくと、そうすることで甲子園での結果が、例えば打率が良くなるとか長打が増えるとか言うのではない。それは87年を最後に一度もPLが優勝はおろか、決勝に進むことさえできなかった事でもわかる。

 簡単に表現するなら、それは打者として投手の投げるボールを打つ、という行為において、少しでもボールを長く見る、変化を見極める、という至ってシンプルな行為に過ぎない。しかしそこにこそプロに進んだ各選手たちの礎があるように思う。

 翻って現在の甲子園出場の常連校は、グラウンドに複数台のマシーンを並べ、140キロ以上に設定しそれを相手に徹底的に打ち込み、感じのいい選手を土日の練習試合に次々に出場させ、その結果で篩に掛けて公式戦でチャンスを与える、というような工程で打者を育てていないか・・・・?

 打者は投手以上に結果が全てである。仮に打てても三割の分野だ。実戦、そしてそこでの結果こそが選手の能力を引き上げるし、監督もそこを手掛かりに起用を決める。ただそこに落とし穴は潜んでいないか? 本来のあるべき論が御座なりになってはいないか?

 選手の個性は千差万別、野球にも多様性は肝要。一つの物差しで選手を試し測りするようなことが許される時代ではない。しかしその代償として、大切にすべき約束事が見落とされてはいないか? 時に結果をも超越する、まさに真理ともいえる何か、打席に立つ者が皆、チームとしてルールのように守るべき何かが。

 土壇場のチャンスで打席に向かう選手に、私が指導者ならどのように声を掛けよう。自分のスイングをして来い、そう引きつった笑顔で背中を叩くのが精一杯か。トーナメントである以上、三振して来い、などとは決して口にはできない。たとえそこに自分たちのスイングをして来い、という暗喩が潜んでいてさえも・・・・。

 自分のスイングと自分たちのスイング、果たしてそこに差異は許されるべきなのだろうか?

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