Till Eternity

どこよりも遅く、どこよりも曖昧に・・・・

原辰徳 伝説(後編)

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 というわけで後編です。

 前回ではあまり原監督の現役時代について言及できなかったので、お詫びにそのさわりをというわけではないのですが、私なりにフォローしてみます。

<本日の眩しいぜ!>

 現役時代の原監督

 原は入団から三年ほどの間に数十億を稼ぎ、日本一やMVPまで手にしたことで、もう特にプロ野球でやることがなくなったような、私にはそんな風に感じたのですよね。

 実際に成績面でいえば、ホームラン王を争ったのは二年目の82年と、ドームになってからの88年の二度だけ。結果として三年目に打点王を獲ったのが、生涯最初で最後のタイトルとなりました。それ以外の年はいつもほどほどかなって感じ。それとまぁ、ここ一番に弱かった印象が強い。正直言えば、後楽園の原は怖かったですが、東京ドームの原にはそれを感じなかったです。

 でもそれこそが大きな勘違いなのです。そもそも原は甲子園での衝撃的なデビューが金属バット導入元年で、いわばその申し子。東海大時代の79年の日米大学野球での獅子奮迅の活躍や、翌年の世界選手権でのキューバの至宝ビネンとの死闘も、大前提として金属バットありきなわけです。つまり初代金属打ち認定選手。技術的に言えば、アウトステップする上に後ろ脚を引く原のフォームでは飛距離は出ませんから。にもかかわらず、大巨人軍の主軸を張り続け、入団から12年連続20発以上、通算382本塁打は見事と言って良いのではないか。なので後年になって振り返った時、由伸に対するようなガッカリ感はないのです。むしろ限られた才能を最大限に活かしたと言えると思います。そもそも才能といった面ではゴルファーになった方が活躍したかもしれませんしね。

 しかし、監督としてのそれには抜きんでたものがあります。ラスベガスなどを通じて得たのでしょうか、勝負度胸や勝負勘、綾や流れを掴むことには非常に長けているように感じます。それは第二回WBCで遺憾なく発揮できたかと。あれだけイチローが不調だったのに見事に優勝してみせましたから。

 あの死闘ともいえる決勝の韓国戦、私なんぞ胃に穴の開く思いで観ていましたが、ベンチの原が時折映るたびに、こいつ結構余裕ある、むしろ楽しそうにも観える、そんな不思議な安堵を覚えたのが忘れられません。あの得体の知れぬ何か、それを後ろ手にして隠しているような感覚があったからこそ、日本代表は優勝できたのではないかと。

 あの持ってる感、あれは何なのか? きっとラスベガスだけで培われたものとは思えない。恐らくそれは原辰徳に流れる血にあるのではないでしょうか・・・・?

 高校野球オタにとっての名将の条件とは?

  私は野球オタを自認するものであり、ほぼすべてのカテゴリーを網羅できているつもりですが、特に高校野球に対する思い入れには強いものがあります。それ故なのかは判然としませんが、知り合い筋にも結構強烈なオタがおりまして、かっては大会の度に優勝校の予想や閉幕後の反省会、細かいところでは監督の采配や選手の未来図まで、ああでもないこうでもないと議論し罵り合ったものです。一筋縄ではいかない頑固者ばかりなので、たとえば歴代最強チームや最高選手などはまちまちで収まりがつかないのですが、一つだけ仲間内で衆目一致した概念がありました。それは、”名将”とは何か、ということ。

 我々が掲げた ”名将” の定義とは、甲子園で三十勝以上したとか、優勝回数五回以上とか、連覇とか、決してそういうのではないのです。では何か? それは、土壇場九回裏二死走者なしからでも追いついたり捲ったりすることができる、しかも一度っきりではなく何度も、さらには甲子園という舞台でそれを繰り返し再現してみせる、そんな痺れるようなチームを育て上げた監督のことを心の底からリスペクトし、”名将” と、私どもはそう呼ぶのです。

 過去に ”名将” の名に値する監督は三人だけ、そのうちの一人が原辰徳の実父、原貢氏であることに言を俟たないでしょう。

 名将 原貢氏

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 原貢氏が三池工業の監督に就任したのは御年弱冠23歳。ノンプロ選手との掛け持ちでした。

 貢氏が所属していたのは社会人野球東洋高圧大牟田、現三井化学。同市内にあった三池炭鉱も三井の持ち物でしたから同社とは一心同体。ですから東洋高圧大牟田の試合には大挙して炭鉱夫が押し寄せスタンドは常に満員。しかも荒くれもの (三池炭鉱と言えば戦前まで囚人を働かせていたことでも有名) ばかりですから、一たび凡プレーでもしようものなら、試合中だろうとお構いなしで観客がベンチになだれ込み、件の選手の胸ぐらを掴んで引きずり出すようなことは日常茶飯事だったとか。貢氏はそんな鉄火場にような雰囲気を、むしろ愉しむように常に大声を上げてプレーしていたそうです。

 貢氏が打席に立った際、ライバルチームの捕手が見かねて、いつも大変だな、と後ろから声を掛けたら、「うるせーっ!」と一喝されたとか。因みにその捕手というのが日鉄二瀬の主軸で後に初の両リーグに跨る首位打者となる江藤慎一です。

 そんな貢氏が三池工業の監督になる経緯については残念ながら存じ上げておりません。コーチを経由したのか、いきなり監督なのかもわかりません。恐らくは同校も、もともとは三井系列だったので、それが結びつけたものだと思われます。

 曲がったことが大っ嫌いだったという貢氏の指導は苛烈を極め、言葉よりも先に手や足が出るため選手からは恐れられ、顔を見るのも嫌だったそうですが、こういうのは昭和の時代にはその終わりであってもどこかに転がっていたような話。

 貢氏が秀抜なのは、あの時代にあっても練習の合間、こまめに選手に水分を補給させ、真夏には塩を舐めさせ、バットは自腹を切って選手一人ひとりに合った特注のものを熊本から取り寄せ、前でさばくな、後ろに残して引きつけて打てと指導し、当てるだけのバッティングをすると、「戦う気持ちはないのか!」と怒鳴りつける。真剣に今の阪神の中堅右打者に聞かせたいぐらい、貢氏は令和の世にあっても優秀な指導者でありえたろうと思います。

 これだけの情熱と技量を心得た人が、なにゆえ現役を半ば諦め、県内では少し強い程度の三池工業の監督になったのか・・・? 就任した59年は先の江藤が中日に入団した年でもあります。もしかすると自分がプロには届かないことを悟ったのかもしれません。

 三井が取り持った巡り会わせなのか、はたまた自分の岐路を知った故なのか、結果として現役のノンプロ選手が高校野球の監督を引き受けるその様が、これは手前勝手な想像ですが、まるで九人の若侍との腐れ縁から助太刀を引き受けることとなり、やがてそこに師弟愛が生まれ、最期のケリまで面倒を見るに及んだ椿三十郎の姿と重なるのですよね。つまり三船敏郎の姿を思い浮かべるのです。ただ三池や相模時代の貢氏の写真を観る限りは、むしろ萬屋錦之介って感じですが。

 着任から六年目、貢氏は大仕事を成し遂げます。甲子園初出場で夏の大会制覇。しかも伝統校やプロ注目の投手との接戦を制しての優勝。

 その夏の地方予選前、貢氏は選手たちに、「甲子園に出たら、お前たちはベスト8に入る力がある」そう言い放ったという。お世辞かもしれませんが、当時のほぼ無名の公立の工業高校には、県外のチームと試合をする経験すらそうはなかったはず。にもかかわらずこの見立て。田舎に居ながらにして全国のレベルを肌で感じ取ることができたとしたなら、まさに慧眼の持ち主だったといえます。だから初出場で優勝できたのでしょう。

 優勝パレードには人口20万の大牟田市に30万の人が集まり、暗い話ばかりだった炭鉱の町に希望の光を灯しました。

 翌年貢氏は松前総長に直々に請われて東海大相模の監督となり、四年後には再び全国制覇。この二度の優勝の内容が見事。都合9勝するのですが、一点差勝利が6試合、そのうち4試合がサヨナラという勝負強さ。二度とも、まさに紙一重のところを薄氷を踏む思いで渡り切り掴んだ栄冠と言えるでしょう。

 親子鷹で挑んだ74年の定岡の鹿児島実業との準々決勝や、翌春、赤嶺の豊見城との同じく準々決勝は今も語り草。このあたりからなら私もぼんやり覚えています。

 晩年の貢氏にスポーツ新聞の記者が、なぜ現場復帰しないのか、と訊ねたら、「俺がやったら毎年優勝だよ」と宣ったそうですが、半分以上は本音でしょうな。

 神奈川時代の当初、余所者の田舎者扱いされた腹いせか、態度も随分と悪かったと聞きますが、貢氏の教え子の多くが、その情熱や迫力と同時に愛情も感じたという点は見逃せませんね。まぁ、貢氏についてはいくつか本も出ていますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。私は読んでません、スイマセン・・・・。

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 そして原辰徳はどうする?!

 ようやくというか何というか、息子さんである原辰徳監督の話に戻るのですが、この貢氏の野球に対する熱と奥義を叩きこまれた彼が、指導者として長けていないわけはないのですよ。この日本シリーズで評価は地に堕ちたそうなのですが、個人的にはどうでもいいですわ。それぐらいでこの血統にケチがつくわけはありません。じゃあなぜ、ああも無様に完敗したかと言えば、それはもう、本人にグッと来るものがないのでしょうな。せめて東京ドームでやってたら、何とかなったかもしれませんね。まぁ原が本気になったら、そう敵になるような相手はいませんって。これは阪神ファンの私が言うのだから間違いない、説得力はないけど・・・・。

 でっ、ここでまた高校野球の話になるのですが、最近 ”名将” の、その入口にいるような監督もいないのですよね。まぁ、九回二死から何度もというのは、いかにもハードルが高いというのは認めます。最近は選手が試合の流れをしっかりと読めるので、逆に諦めが良くなった、そんな声も聞くし、そういうのも少しは関係しているのでしょう。ただ、やっぱり選手ではないと思うのです。指導者、監督なのですよ。

 もうはっきりと白状すると、原監督に高校野球の監督になって欲しいのです。プロ野球にすっかり飽きてしまった、そんなご様子なのならば尚更、すっぱりと辞めて、それでゴルフのシニアツアーにスポット参戦したくなる、そんな気持ちも判りますが、これも脇に置いて、ぜひとも高校野球の監督をして欲しい。もしそれが実現すれば、すぐに ”名将” の域に達する、そう思えて仕方がありません。

 原貢氏は晩年、俺がもう一度三池工業の監督になって強くしてみせる、そういったという話を聞いたことがあります。しかしそれが叶うことはありませんでした。その夢を息子が継ぐというのはいかがでしょうか?

 二年前の第100回記念大会、外野が有料になったにも関わらず、約二週間の間に100万人が甲子園に詰めかけました。15年ぐらい前までは適当な数え方をしていたので、80万とか言われても嘘くさかったですが、近年の数字にはそこそこ信憑性もあるので、ここ数年の甲子園の人気は結構凄いなと感じます。試合だけではなく応援を観たいという方も多いとか。高校野球にも色んな見方があって良いと思うので、そこに口を挟むつもりは毛頭ありません。そんな人気の反面、肝心の試合自体のドラマ性は薄れてしまった、そう感じる方も多いのではないでしょうか? あえて辛口に言えば、平成以降ずっとそういった傾向に陥ってしまったようにも思うのです。

 その理由が何となく判って来たので、そのうち整理して書きたいと思います。まぁ、もったいぶるつもりはないので簡単に書くと、私立勢が公立校を圧倒するに従って、高校野球の監督が職業として成立するようになった。それに伴い監督は学校経営者から結果を求められる立場になり、選手やチームの育成に計画的な要素が加わりだした。そしてより効率的かつ効果的に結果を出すために、何ヵ年計画でチームを作り上げようという指導者が現れ始め、そこに限られた原資を集中しようとするその手法は、経営サイドにとっても理解しやすく、大いに共鳴するものであった。その結果、毎年必ず勝負に出るという高校が相対的に減ることとなった。我々高校野球を観る側の心に響く、奇跡や名勝負と語り継がれる多くのドラマが、最期の夏という三年生だけが持つ情熱や意地を源泉としていることと、強豪私立高校や雇われ監督が取り始めた先の手法との間に齟齬が生じるようになった、つまりはそういうわけです。

 毎年真剣勝負することをリスクと見るか見ないか、難しいところだと感じますが、それをしないと痺れるようなドラマは生まれないのだと個人的には思います。

 この風潮を一気に打破するためには、スケールの大きな監督が必要です。原監督が高校野球の監督になってくれるとは夢にも思いませんが、この少子化の時代にあってさえも、学校経営という枠を平気ではみ出て見せるような、そんな大物の出現が高校野球界に待たれるところです。

 「俺はベンチに入れない奴も含めて、三年生と一緒に最期の夏まで必ず戦ってみせる、だから俺について来いっ! 」 そう純粋に言える指導者が必要なのです。そしてそれこそが ”名将” の本当の条件なのかもしれません。

 

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